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富士な人

映像作家・勝又幸宣さん

映像作家・勝又幸宣さん

映像作家・勝又幸宣さん

霊峰の懐での多用な営みを、次世代へ

勝又幸宣さん

もしあの時、トランペットを買うお金があったなら...。富士の膨大な映像は存在しなかった。霊峰の麓で生まれ、広大な裾野を「庭」といい、四季折々に移ろいいく山の姿はもちろん、懐ではぐくまれる生き物たちの姿を長年記録。「もっと富士の自然の姿を残し次世代に伝えていきたい」と、その意欲は衰えることを知らない。

5代前から「富士」に関わる家系に生まれた。父の実家は、新田二郎の「芙蓉の人」の中に登場する、御殿場口で最初の宿「富士本屋旅館」。さらに祖父・忠義氏は旅館業を営むかたわら、「美しい富士山の姿を世界に伝えたい」と写真館も経営。1台の価格で、家が数軒建つという、360度撮影可能な、パノラマ写真機を購入。当時の山頂、宝永火口さらには本栖湖などの貴重な映像は今も残る。また母方の実家の曾祖父は富士登山の強力を行っていた。まさに両親から「富士」のDNAを受け継いでこの世に生を受けた。1964年の東京五輪開会式の10月10日、学校は休みに。これ幸いと富士山にアケビを取りに行った。翌日、先生に「開会式の感想文を書け」といわれ「見てないといったらえらく怒られた」と笑う。

そんな少年も「学校を卒業したら音楽か写真で食べて行きたい」と思う。たまたま友人がジャズのフルバンドを結成。高校時代、吹奏楽部にいた関係で「トランペットで仲間に」と誘われる。ここで冒頭に戻る。「あの時、お金があったら音楽関係で飯を食っていた」。仕方なく写真の道を進む。東京の現像所で1年、カメラの修理屋で1年、それぞれ修行。地元に帰り、カメラの修理屋を営むかたわら、富士山の写真を撮り続ける。それも「観光写真など撮りたくない」と富士山の生き物を主題に。

勝又幸宣さん

90年代に入りビデオカメラと出会う。以降、「91年から97年ぐらいまでは、天気がよければ富士山を撮っていた」生活に。それも日の出前から日没まで、ベストアングルを求め、山の中を歩き続け、時には車の中で寝ることも。ビデオテープにして、250時間分以上残る映像は、霊峰の四季折々に見せる素顔はもちろん、時に雲と戯れ、時に陽の光を背にそそり立つ姿を余すことなく伝えている。

「富士山というと遠景から眺め、写し、美しいというだけで終わってしまう。しかし私は常々、富士山の本質を撮るよう心がけている。富士山に一歩近づくと、その懐でさまざまな生き物が暮らしている。そんな自然の多用な営みを記録し、次世代に伝えて行きたい」。

富士山クラブでは、富士山南面の森林調査のリーダー。月2回の調査活動の前には、航空写真などで、現地の細かいデータを集め、当日はそれと、GPSを頼りに、道なきところを進み、未知の森を訪ね、巨木を探す。「遭難と背中合わせの調査に、事前の準備は欠かせない」故にかなりの時間が割かれる。「富士山クラブに入ったら、富士山に行く時間がなくなった」。これが当面は最大の悩みという。

(富士山クラブ通信29号より転載)

最終更新日  2010年4月28日