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団体会員トップに聞く Vol.03

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みしまプラザホテル 室伏勝宏社長

歴史と湧水の街の老舗が守りたいのは「自尊心」
-富士山を汚すのも水を汚すのもぼくらの自尊心を失うこと-

みしまプラザホテル 室伏勝宏 代表取締役社長みしまプラザホテル
室伏勝宏 代表取締役社長
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こちらのホテルのホームページを開きますと、「東海客舎『菱屋旅館』120年の歴史に学びつつ」とあります。かなり古い歴史をお持ちのここと思いますが、その生い立ちからお話しいただけますか。
室伏
私どものホテルの創業は明治22年(1889年)まで遡ります。この年は奇しくも東海道線が全線開通した年でもあります。と言っても丹那トンネルの開業はまだ先で、この時は今の御殿場線で国府津から沼津へ抜けるルートです。しかしこれは箱根を越えて、三島にいたるという宿場町の終焉に止めを刺したことを意味します。三島には江戸時代の最盛期は約150軒の旅籠があったらしいんですね。それが明治22年には5軒程度になってしまったのです。そのとき私の4代前の室伏清五郎が、東海道三島宿の脇本陣跡を譲り受け旅館をはじめました。
 
なぜ街道の終焉時に旅館をはじめたか、といいますと創業者は「東西の通行は衰えても、南北の通行は盛んになると考えたようです。要するに三島を基点に天城を越えて伊豆半島を南へ、また富士山麓を目指し北へ向かう経済活動を予想して宿をはじめたようです。昭和の初期になると丹那トンネルの工事がはじまりました。トンネルは昭和9年(1934年)に開通。三島駅も作られ、街に活気が戻ってきました。
その頃のお客様の中にはトヨタ自動車の方もおられました。当時、トヨタ自動車が自社の自動車をテストするのに豊田市(愛知県)から東京を往復できれば合格だったようです。要は箱根の険しい山坂を越えられるかということなのでしょう。そんな方々にも往復の道筋でお世話をしたそうです。それ以前に、三島に練兵場ができ、そこを皇族の方などが視察にこられる。そうなるとご休憩やご宿泊の場所が必要になることから、そのお役目を拝して施設を整えたり、お献立を検討したり、心をつくしたと聞いております。
みしまプラザホテル全景みしまプラザホテル全景
子ども時代の夢が「菱屋旅館」を「みしまプラザホテル」にかえた
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旅館としての伝統をふまえながら、ホテルにされたのはいつですか。
室伏
私事で恐縮ですが、私は中学校の1年のときに父を亡くし、大学1年のときには祖父も亡くしました。そんな関係で私は大学在学中に社長を継いだのですが、実はホテルにするのは小学校時代からの夢でした。子どもの頃の勉強部屋には宴会場の三味線や唄ごえが聞こえてきました。毎晩、芸者さんが入って、いわゆる接待を繰り返しているのを耳にして、当時は「大人の世界はいやだな」と思い、将来この旅館をこのままの形では継がないと思いました。それと同時に、子どもの頃、父に連れられて東京のホテルなどによく立ち寄り、そんななかで憧れのようなものが生まれ、小学校3、4年の頃には「ホテルにしたい」と漠然と思いました。現実にホテルになったのは昭和49年(1974年)ですが、今考えれば、小さい頃のほのかな夢を大人になって実現できたことは、私にとって自慢できることの一つですね。
自分の似顔絵が入った名刺社員全員が持つ、自分の似顔絵が入った名刺がユニーク。お客様との楽しいコミュニケーションを促すと社長の弁
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「プラザ」という名前にこだわりがおありだとか...。
室伏
あります。料理旅館はどちらかというと「一見さんお断り」といった雰囲気ですが、「プラザ=広場」というイメージはその逆でしょ。開放的で、どなたも好きなようにお出かけ下さいという感じです。
私の旅館からホテルにしたい、という思いが「プラザ」というネーミングです。オープンしてからパーティーや宿泊以外のお客さまにも、気楽に立ち寄れる場にするにはどうしたらいいのかをずっと考えました。そこでまず思いついたことが、ギャラリーの開設です。
それまでも市民の方々の描かれた絵は、公共の施設で展示されていましたが、「ちょっと非日常的はステージ」を提供しようと、ホテル内にギャラリーを作りました。
 
また、三島ではクラシックの音楽会がよく開かれていますが、これが1000人も入る大きなホールで、入場者がまばらなんてこともあります。
それならホテルのパーティールームを、100人なら100人なりに、200人なら200人なりに、客席を素敵にレイアウトできるのではないかと思ったんですね。
パーティーの華やかさがあるなかでコンサートができるような空間を作りました。どちらも、人が集う「プラザ」でありたいと考え、絵画と音楽、それもプロであるかないかではなく、精進する人たちのためのステージを作りました。コンサートの売上げは寄付をします。
富士山の湧水を浴びて育った子どもの頃富士山の湧水を浴びて育った子どもの頃。バケツの中の、川でとった魚をのぞき込む
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ところで、三島といえば、富士山の伏流水が湧く「水の街」で、「街中がせせらぎ」事業なども盛んに行われていますが。
室伏
私の子どもの頃は、夏の遊びといえば「川」でした。三島の子どもたちにとって、水は水道ではなく、身の回りの湧き水・せせらぎ・川の風景でした。それが昭和30年代ころから、豊富な水を求めて工場や企業が移転して来るようになり、水は年を追うごとに少なくなってしまった。しかし市民からすると三島が近代化する中で、水が減ることは悲しいけれど、口には出しにくい雰囲気がありました。企業の進出による雇用の増加、商店街の活性化などのメリットがあるなか、三島の水の枯渇を訴える声は小さかったのです。しかし少なくなることに加え、水の汚れのひどさに、三島市民のプライドが、「これはまずい」と声を上げました。そのきっかけは、昭和52(1977)年、三島にお住まいの映画監督・五所平之助さんがお作りになった、映画・「わが街三島-1977年の証言」です。「三島は昔はこんなに素晴らしい町だった。しかし今は...。これでいいのか」と市民に問いかける内容でした。実はこの映画、三島の有志が寄付を集めてできた自主制作でしたが、この映画を見た市民が「これはやはりまずい」と一斉に立ち上がりました。水は少なくてもいいから、きれいな水にしようとの運動が起き、その声に行政が応え「街中せせらぎ」事業がはじまったのです。私も先ほどお話ししたチャリティーコンサートをはじめるときに、二つのところを支援しようと思いました。その一つが三島で水の環境保全しているいくつかのグループ。もう一つが障害をもつ方々のための施設だったのです。みしまプラザホテルのチャリティーコンサートは、三島の水への思いを大きな柱としてスタートしたものでもあったのです。さらにもっと大きな自然、三島の水の水源である富士山そのものの自然環境を守る「富士山クラブ」の存在を知り、チャリティーコンサートを通じて、ささやかな寄付もさせていただきました。

景観は自然と人間の共生によって保たれる。自然に合わせて景観をデザインする。

ギャラリー市民の憩いの場であると同時に晴れやかなアートの発表の場でもあるギャラリー
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その富士山への思いをお聞かせいただけますか。
室伏
私は外国から友達が来ると、必ず富士山の五合目のあたりへ案内します。しかし所々恥ずかしいと思うところがあるんですね。外国の方は「富士山はきれいだ」と思って来ているので、実際に見て「何故、こんなに汚したの」と驚くとともに、ため息をつきます。それは私にとってとても辛いことです。先ほどの三島の水が汚れていることは自尊心を失うことと同じだとお話ししましたが、富士山が汚れていることも、私たちの自尊心を失うことです。私たちは、三島の水と同じで、富士山に育まれたという思いが強いですね。子どものころ祖父と弟たちと、一合目から自分の足で富士山に登りました。富士山の植物などを調べるために図鑑などを片手にね。でもそのときは全然汚れていませんでした。
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その富士山が、最近、世界遺産への登録など、なにかと話題になることが多いのですが、富士山の現状をどのようにお考えですか。
室伏
今二つの意見があると思います。富士山を観光化し、大勢の人が来るなかで環境を整えようと考える人と、逆に入るから汚れる、だから入山を規制すると主張する人がいると思います。私は観光には「目で見るもの」と「やすらぐ」ものがあると思います。その意味で富士山は山の中に入ると、それほどあれこれと見るものがあるわけではない。しかし遠くから見て神秘的な富士山に、今近づいているんだ、そしてだんだんとその懐に入っているんだと思うことが、安らぎを感じさせるのではないでしょうか。そのとき、周りで目にとびこむものが、汚れていたり、俗っぽいものがあると、「やすらぎ」を感じることが出来ない。やはり「見る観光」「感じる観光」という意味からも、ゴミは論外ですが、景観を俗っぽくしないことが大事だと思います。看板の色を規制し、建物はある程度樹木で囲うなど。富士の掌の中に入るときは、俗っぽいものがあっては駄目なんですよね。観光はいいのだけれど、目に見えるものを富士山の自然に合わせ、景観をデザインすることが大切です。
フロントに置かれた富士山クラブの募金箱ホテルフロントに置かれた富士山クラブの募金箱。富士山の環境保全をお客様に呼びかけています。
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では、これから三島の水、そして富士山の環境を良くするために、どんなことをお考えですか。
室伏
私のライフワークとして、三島の水、さらにはそれを取り巻く富士山に代表される自然に、自分がこれからどう関われるのか、と考えています。もちろんチャリティーコンサートやギャラリーは続けていきますが、そうしたホテル内だけのものから、もう少し、水とか自然とか富士山などに、これからどんな気持ちで関わっていこうかと、これが自分自身の課題なのです。
具体的に何をするかを実は今考えているところです。
小さい頃、これではいかんと思い、ホテルにしようと思った。そのように、課題を持っていれば、必ず目的、目標が出てきます。きっと近いうちにそれがはっきり見えてくると思っています。
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最後に富士山クラブに一言いただけますか。
室伏
富士山の環境を考える団体は、富士山クラブのほかに、まだまだたくさんあります。富士山には色々な登山道があって、いろんな人々が様々なルートを使い頂上をめざすように、それぞれの方法で富士山の環境を良くしようと活動しています。
そのなかで、目的が同じだから途中のやり方はばらばらでいいやという人と、目指すところが同じなら、手を携えてやろうという両方の意見があると思います。
私は基本的には後者の考えです。富士山クラブがネットワークを作ってくれるような存在になればと思います。

写真提供=みしまプラザホテル

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最終更新日  2018年11月 8日